<アーカイブへ>「おはようございます」。息を切らせながら駆け込んだ彼女は、笑顔をつくりながらこう挨拶する。腕時計をみれば午後4時。「おはよう」の時間じゃない。終業のチャイムとともにぞろぞろ部屋を出る若者達が「お疲れ様でした」と、こちらに向かって頭を下げる。都内のある大学での日常風景。夕方に「おはよう」とあいさつされて最初は戸惑った。芸能界じゃあるまいに、と。
そのナゾは解けた。大学一年になった彼らの大半はアルバイトをしている。コンビニにスーパー、居酒屋、回転寿司屋に牛丼店…。そう、アルバイト先での出勤・退勤時の挨拶なのである。彼らにとってアルバイト先は、初めて実体験する社会。その社会での日常語が、大学のキャンパスに持ち込まれる。それを使えばなんとなく「半大人」になったような気がするのだろうか。 彼らに「働く」というテーマでレポートを書かせた。あるドキュメンタリー映像をみせた後に。映像は中国広東省の工場で貧しい家計を支えるため、長時間の単純労働に耐える出稼ぎ労働者の姿を描いた内容である。「一家の生活のため」「生きるため」労働しなければならない「近代的悩み」を抱く中国人の若者。それに対し衣食住は足り、何のために働くのか分からない「現代的悩み」の中にいる自分達の存在を相対化してもらうためである。 レポートで圧倒的に多いのは、アルバイト経験についての文章。次いで、家族のために自己犠牲を厭わない親の姿を描いた作品も。アルバイト経験では「仕事の厳しさを知った」「何度も辞めようと思ったが頑張って耐えた」という“根性モノ”が目立つ。中には「今ではしっかりとお客様に声をかける余裕が生まれ、もっとお客様に喜んでほしい」などと敬語を使う学生もいる。ここは居酒屋じゃねえ。オレはコンビニの店長じゃないから文章で敬語を使う必要なんかないんだと言っているのに…。 日本の大学進学率は5割強。半分以上が学士さまの時代だ。同時に彼らは、接待サービス業を全国展開するチェーン店を支えている末端労働者でもある。店は彼らに勉強させてやろうなんて気はない。安上がりの労働力のスペアはいくらでもいる。高度成長を支えてきた企業の「終身雇用」と「年功序列」という構造が崩れ、みんな不安の中で生きている。大事なことはその変化を自覚することだ。 その不安を率直に言語化した学生の文章を紹介する。「なんだろう、お金をもらってもどこか満たされない。過ごしていく日々に感動を得られない。自分の代わりなんていくらでもいる。アルバイト一人辞めたくらいで店には何の影響もない。~中略~なんだろう。どこか虚しい。働くなんて、こんなものか。あのどこか満たされない虚無感を抱えたまま何十年生きていくなんてまっぴらだ。さて、この先どうしよう」。(了)
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