<アーカイブへ>女子大生のケバいメークをみていると、電車やバスで、手鏡に向かって一心不乱に化粧する女性の姿とダブって見える。「化粧は家でするもの」「公私の区別がつかないのか」…。車内化粧をみるたびそんな常識が頭に浮かぶのだが、何とも名状しがたい不快感を、明快に言葉にできないもどかしさがある。
そこで学生に「車内化粧は悪か?(車内化粧はなぜ不快か?)」をテーマに小論文を書かせた。「善悪二元論」から判断を求めるためではない。「悪」「不快」と感じる(感じない)自分の意識と感覚、それに常識の「正しさ(不当)」を言語化してもらうためである。賛否で分けると、「3対7」で否定論が優勢。論拠はやはり「化粧は家でするもの」「みにくい」「粉状の化粧品は飛ぶから迷惑」が多かった。 「恥じらいを持つ日本人らしさに反する」「大和撫子の伝統を守れ」など、「古典的女性像」から批判する学生がいたのは意外だった。一方の擁護派はどうか。「昔の女性の常識を、現代にも当てはめようとしている」「化粧を必要とするルールを作り出した男社会が問題」とジェンダー論からの分析や「無意識の女性差別が根にある。非常識と考える自分の意識を疑え」と、差別論を展開した学生もいた。 毎日、片道1時間のバス通学をする女子大生は、車内化粧の常習者。「朝は眠い。移動時間は貴重なメークタイム」がその理由。他の乗客から指弾されても動じない彼女だが、「もし自分の娘がやったら」と自問したとたん「急に複雑な心境に襲われた」と書いた。自分と「娘」(もう一人の自分)との股割きにあう心理を素直に言語化していて、好感が持てた。 最後に「私論」を少々。電車やバスは、見も知らぬ人間が身を寄せ合う密室である。「赤の他人」と密室にいること自体がストレスなのだ。それが他人に不寛容になる原因の一つだ。「足を踏んだ」「肩が当たった」と、「善良な」サラリーマンが殴り合いをし、果ては殺人にまで発展することもある。密室でも、一緒にいるのが家族や知り合いならよい。むしろ共通の話題で盛り上がる楽しい空間になるだろう。足を踏まれても、知り合いなら争いにはなるまい。 それは、空いた電車でも同じことである。やはり「不寛容モード」に自動スイッチが入るからだ。ストレスから解放されるには、自分の世界に閉じこもるのが一番。携帯画面から目を離さないのも、読書にふけるのもその心理が働いてはいないか。 化粧もひょっとして「閉じこもり」の別の表現かも…。車内化粧への不快感は、あまりにも「堂々とした振る舞い」に、不寛容のスイッチが作動するからではないか。「女のくせに」という差別意識もあるかもしれない。大事なことは、この密室では自分だけでなく全員がストレスを抱えている。そのことを自覚することである。(了)
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