<アーカイブへ>名前の読みは難しい。東京郊外にある大学では、文章指導講座は必修科目だから、いやでも出席をとる。毎週一回、1クラス約25人の学生の姓名を呼び上げることになる。名前には流行りがあり、女子学生では「菜」「杏」「萌」「綾」のつく名前が多い。男の場合はかつて流行った「太」が減って、「翔」「裕」が増えたような気がする。「愛子」「美子」など、誰が読んでも間違いようのない伝統的な名前だとほっとする。
読みにくい名前も少なくない。「玲雄」と書いて「レオ」とつけた名付け親は、「ジャングル大帝」のファンだったに違いない。読み方を間違える度に、訂正を求める女子学生がいた。名前は「幸」。履修者名簿にルビを振っているのに、なぜか「ゆき」とか「さち」と読んでしまう。そのたびに「『みゆき』です」と、小さな声ながら毅然とした声でこちらをにらむのだった。 彼女にはずば抜けた文章表現能力があった。「男女という記号、学生という記号、家族という記号。ああそうか、人は記号でできているのか。記号、記号。人は記号。ああ、なんて便利」。自己アイデンティティーに関する文章。つい半年前まで高校生だったとは思えない適確で、隙のない筆致である。記号論を理解していた。「記号にすぎない名前。その読み方ぐらい間違ったって…」という言い訳は、一度も発することなく飲み込んだ。 外国人の名前の読みはもっとやっかいだ。まず日本語にはない発音がたくさんあるから、カタカナで表記すれば、どうしたって無理がでる。新聞やテレビなどメディアの原則は「可能な限り現地音に近いカタカナ表記に努める」ことにある。「じゃあベートーベンは、ベートホーヘンじゃないの?」。正しい指摘だが、既に定着している歴史上の人物の表記にはさわらないのも原則である。 面倒なのは初出の人名表記。例えば、新しいエジプト大統領をどう表記するか。全国紙のA新聞は「ムルシ」。だが他の全国紙や通信社、TVの大半は「モルシ」だから、A紙は少数派である。念のため英語メディアは米「Newyork Times」「CNN」が「 Morsi」だが、英Reuters通信は「Mursi」。英語もアラビア語発音をアルファベットに当てはめただけ。「どっちが現地語に近いの?」に答えるのは難しい。 少数派のA新聞には、人名表記の“前科”がある。東チモールの初代大統領、グスマンを今も「グスマオ」で押し通しているのだ。宗主国だったポルトガル語では「Gusmao」。最後の「ao」の「a」の上には「~」がつく。ブラジルの「Sao Paulo」は「サンパウロ」であって、「サオパウロ」じゃないけどなあ…(了)
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