<アーカイブへ>桜が満開のころ上野に行った。巨大地震と津波被害、止まらない余震に原発事故とうっとうしさを晴らしたい気分もあり、花見の名所に足が向いたのだった。特に、どこかのえらい知事が「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない」と「自粛」を押しつける発言をした後だったから、「ジシュク」を自ら破り、自粛令の効果を見たい気持ちもあった。だから正確には花見ではなく「花見ウォッチ」。もちろんその後、アメ横近くのガード下でいっぱいやるのが本当の目的なのだが。
オット、いるいる。ウイークデーの夕方だというのに、公園はかなりの人出だ。人並みは桜を見上げながらゆっくりと動く。いつもと違うのは青いビニールシートが少ないこと。企業名を書いたシートの上で、新入社員がぽつんと席取りしている光景はない。木の下に陣取った4,5人の若者は、つまみに缶ビールで盛り上がろうとしているのだが、歌も踊りもなく静か。何となくこちらの視線を気にしているようにみえるのは、自粛命令の効果だろうか。あるいは単に時間が早すぎたせいかもしれない。 「3・11」は、日本と日本人の伝統的な文化や思考方法をあぶり出した。「ジシュク」はその最たる例だが、それだけではない。第1に挙げたいのは「組織防衛」の原理。福島原発事故のように、多くの人命が危険にさらされているケースでさえ、東電や役所は生命より組織防衛を重んじた。炉心溶融を知りながら隠し、チェルノブイリ級のレベル「7」と認識していたのに、レベル「3」と発表。「パニックを避けたかった」という言い訳は通らない。過小評価してそれで収まれば、組織の責任は軽くて済むと考えたのではないか。 第2は「集団主義」。震災当初、被災地で略奪もなく秩序が保たれているのを海外メディアは「冷静で礼儀正しい」と絶賛した。これはプラス面かもしれない。だが首相が「未曽有の国難」と危機を煽り、「国をあげて救命を」と、挙国を強調するようになると話は別だ。テレビは通常のコマーシャルを「公共広告」に差し替え、芸能人らが「頑張れニッポン」「日本の力を信じてる」と、国家を前面に押し出す。原発事故の責任の所在は曖昧になる。 そして第3は、論理ではなく空気の支配。いま学生が一番恐れるのは何だと思う?「友達からKY(空気が読めない)と見られること」だという。無言の同調圧力が社会の支配的な力なのだ。被災地を支援するには「ジシュク」ではなく、もっと消費を活発にし、税収に貢献することが正しいはずだ。花見客には、都知事賞をあげてもいいのではないか。ここまで書くと戦前の日本が頭に浮かぶ。欧米列強の圧力という国難を挙国一致ではね返すため、政府、軍、財界とマスコミが一丸となり、民も「欲しがりません、勝つまでは」と、ジシュクで応える。ではメディアは戦争責任をとったか?原発推進の先棒を担いできたメディアは、批判の標的を東電に絞り、平気で「脱原発」を説いている。(了)
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