<アーカイブへ>靴を履き間違えた。大学近くの居酒屋で同僚より一足先に帰る時、間違えたのである。見慣れたデザインにメーカーのロゴも一緒。おまけに靴ヒモのほどけ具合までそっくりとあって、何の疑問も抱かぬまま「そいつ」を履いちゃった。
歩き始めると、いつもよりすこしゆったりし皮革も軟らかい感じがする。電車の座席に座り足元に目を落とす。「そいつ」はよく手入れされ靴クリームで黒光りしている。自慢じゃないが、革靴にクリームを塗った覚えはない。だから「あいつ」はいつも泥やホコリをかぶりところどころ白っぽい。オカシイ… さてここからの思考こそ、人の個性が如実に表れる。オカシイと思いながらも「居酒屋がサービスで磨いてくれたのではないか」と無理やり思い込もうとした。酒の効果かもしれないが、「いくらなんだって、わずか数人の同僚が同じ靴をはくわけはない」という「思い込み」が、思考を善意の誤解へと導いたのである。 電車を乗り換え、再び「そいつ」で歩き始めると靴の中がネチャつく感じがしてきた。足になじんだ「あいつ」にはない感覚。いったん疑念が沸くと、「善意」は説得力を一気に失う。足がバッチイものに覆われ、足裏に痛がゆいような違和感がつきまとう。「水虫じゃあ?」「臭い匂いもうつるかも」。自分のことはすべて棚上げして、不快の原因をすべて「そいつ」に押しつける。自宅に戻って靴箱に収める時、「そいつ」の匂いをかごうとして止めた。かなり勇気がいるものだ。 靴で思い出すのは4年前、当時のブッシュ米大統領がバグダッドで記者会見中、イラク人記者に靴を投げ付けられた事件だ。ブッシュは軽妙に2足の靴をかわして反射神経のよさを見せたが、靴投げはイスラム教徒にとって最大の侮辱の方法。では履き間違えは戒律上何か意味があるだろうか。教えてほしい。 行方不明だった「あいつ」は、3日ほどして発見された。こちらが履き間違えたため、同僚は仕方なく「あいつ」を履いて帰ったそうだ。「すこし小さいからすぐ分かった。店員に言うと、他のお客さんが間違えられたんじゃないですかと涼しい顔だった」という。さぞ腹立たしい思いだったろう。 これまでコートを間違えて持ち帰ったことがあったが、靴は初めてだ。履き間違えた「そいつ」がいくら手入れが行き届き清潔でも、自分のものにする気にはなれない。これが高級コートなら別かもしれない。それだけ靴は、自分の足の一部のように一体化している。家に戻ったいとしい「あいつ」は、久しぶりに実家の靴箱の中でくつろいでいる。(了)
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